「兼新(かねしん)」という名前の読み方や由来を今でも良く聞かれます。「兼新(けんしん)」と読んでしまうのが一般的な読み方だとおもいます。 なぜ、「兼新(かねしん)」なのか。その由来を創業者の人生を振り返りながらご紹介したいと思います。

創業者について

出生から少年時代
創業者 伊東 秀男

創業者 伊東 秀男

創業者は故 伊東秀男。
大正3年の12月24日、愛知県の弥富町(現・弥富市)にて生を受けました。
初めての子、ということもあり両親の愛情をいっぱいに受けて成長していくのですが、僅か4歳で父親が病死してしまい、母ひとり、子ひとりで生きていかなければならなくなりました。

当時は今のように女性が社会進出できるような構造は整っておらず、女性の働き口もあまりありません。まして、小さいこどもを育てていかねばならない状況でした。

母・しんは息子・秀男を姉夫婦に預け、住み込みの女中奉公に出て、奉公先から仕送りを送ることで秀男少年を養いました。そんな母親を見て育った秀男少年は尋常小学校卒業後、周囲から進学を勧められるも家計を助けるとともに早く自立出来るよう奉公に出ることを決心しました。

独立「カネシン」の誕生

さまざまな仕事を経て、秀男少年は愛知県の津島にある「兼光商店」へ就職します。
このお店は今でいう「家電屋さん」に近いお店だったそうです。
彼はここで、ラジオの販売や修理などを主に手がけながら、会社の仕組みや商売、物流などを学びました。

「仕事」を覚えた秀男は「起業」を志します。
が、しかし、「就職」とはいっても当時はまだまだ徒弟制度のような「弟子入り」。まして住み込みの奉公ですから、賃金など貯まるはずがありません。起業したくても資本が全くない、そんな状況でした。そんな折、母・しんが今までに自分が貯めてきたお金を快く出資してくれたのです。

これにより店を構える準備ができた秀男は社名に修行先であった「兼光商店」の一字を頂き、そして母「しん」への想いと「新しい門出」との意味を合わせて「兼新(かねしん)」と名づけました。

拠点は桑名市の相川町。
昭和13年の2月、三重県桑名市に「カネシン電気商会」を設立しました。このとき彼は23歳。夢と希望に満ち溢れ、自分の人生を歩み出しました。修行先から離れた地域で開業したのは修行先とライバル関係となってしまうことが、秀男の信条に反したためです。

創業から数年でその地域では技術・売上ともにトップクラスの企業へと成長。
ラジオや電蓄の販売・修理、特に優れた音を出す電蓄を組み立てられることで有名となり、当時の桑名地域の政財界をはじめ、各界の方々から高く評価されたそうです。

カネシン電気商会の将来は順風満帆。将来は明るいように思われました。
が、その明るい将来に暗雲が立ち込めます。

復興の礎となるべくゼロからのスタート、そして現在

昭和16年、日本は太平洋戦争に突入し、戦局が悪くなるにつれて本土への空襲が始まります。
桑名市もその例外ではなく「カネシン電気商会」も昭和20年の“桑名大空襲”の被害に遭ってしまいます。

終戦後、拠点を移すべく名古屋へと向かった秀男は愕然とします。名古屋も同じように焼け野原となっていたのです。焼け野原となった名古屋を見て衝撃を受けた秀男は、復興を信じて新たにスタートを切ることを決意します。

「復興に向けて立ち直るためには必ず電設資材が必要となる」と感じた秀男は今まで取り組んでいた「ラジオの修理・販売」を一時止めて、新たに電設資材業を立ち上げます。「出来る限り多くの電設資材を扱い、どんな要望にも応えたい。それが自分に出来る復興への貢献である」と信じての再スタート。 それが今の「兼新電機株式会社」です。

以後「兼新電機」として、企業規模を拡大、取り扱い品目を増やし、「兼新にいけばないものはない」と言われるほどまでに成長。
秀男は70歳まで社長を続け、精力的に新しいものを導入し、会社を成長させ続けました。
この地域でも早くからコンピューターを導入しサービス向上と事務合理化をはかり、商品センターの拡張、ケーブル切断機の導入などを実施。

“どんな需要にも応えたい”その創業者の想いは今も息子である現社長の勇夫を筆頭に引き継がれています。